人生半ばに突然やってきた、ある “夢中”な出来事について。
中年の私にある日突然やってきた“夢中”事件。
突然湧きあがったあの衝動は何だったのでしょう?
今回は、人生半ばにやってきて、その後の私を変えてくれた“夢中”についてご紹介します。
昔好きだったバンドの曲が、急に脳内再生されたあの日
それは人生も半ば、「不惑」と言われる年代に入って何年か経った頃の、ある穏やかな秋の日の午後のことでした。
小さい頃から私を可愛がってくれていた祖母が、そろそろ旅立ちそうだという知らせを受けて帰省。病院での面会を終え、父が運転する車の後部座席の窓越しに、夕陽に染まるのどかな田園風景をぼんやりと眺めながら色々な思いを巡らせていた時、突然、ティーンエイジャーの頃に大好きだったアメリカのハードロックバンドのバラード曲が脳内に流れてきました。
もともとは音楽がとても好きだったはずなのに、今に至っては仕事や家庭のことが自分のキャパシティの殆どを占め、音楽に熱中していた若かりし頃のことなどすっかり忘却した生活を送っていました。そのような日々だったので、普段なら懐かしい曲を思い出したとしてもその瞬間「懐かしいなぁ」と思うだけで、そのまま忘れていたと思います。
ただ、その時の脳内再生は、何かが違っていました。
その後、私は何かに突き動かされるように、その曲、そのバンドのアルバムを繰り返し聞き始めました。通勤の時も家に帰ってからも繰り返し、繰り返し。そしてそのうち、そのバンドのライブを生で見たいという気持ちがふつふつと湧き起こって来たのです。
そのバンドを大好きだった10代の頃(時は80年代)、地方都市に住み、わりあい厳格な家庭環境に育ち、厳しい校則のある女子校通いだった私には、東京や大阪までライブを、しかもハードロックバンドのライブを見に行きたいとは、とても言い出せませんでした。いえ、考えることすらできませんでした。
しかし30年もたった今、調べてみるとそのバンドのアメリカでのライブスケジュールが出ているではないですか!
もう絶対に手に入らないと思っていた「過去に喪失したもの」が、勇気を出せば手に入れられることが分かり、軽い衝撃を受けました。ただその時は、仕事の都合で渡米は叶わなかったのですが、可能性があるということが分かっただけで、ワクワクしたのを憶えています。
そして次の機会に必ず行こうと決意しました。
「単身渡米ライブ参戦」を決意。ジムでの体力づくり。
それから私は、来るべき「単身渡米ライブ参戦」に向けて準備を始めました。
国内での一人旅の経験はあっても、海外に単身旅行はしたことがなかった私は、「何が必要だろう?」と考え、まずは一人で乗り切れる体力だと思い至りました。(普通なら語学を思いつくところだと思うのですが…)
人生のMAX体重値のこの体では、いざという時に俊敏に逃げられないぞ…とジムに入会、トレーニングを開始しました。
そして1カ月ほどたった年末近いある晩のことです。ジムでのランニング後、ふとSNSを覗いてみると 、そこにはあのバンドの解散とファイナルツアー発表のニュースが…。
もうこれは行くしかない。最初で最後の機会だと思いました。
そこからは、仕事のスケジュール・日本の休日・ライブスケジュールを見比べ、翌年の海の日の連休を使ってアメリカ南西部の3都市の公演に狙いを定めました。
現地のライブチケット発売時間は、日本の深夜。 眠い目をこすりながらチケットを確保したり、短期間で3都市を回るための効率的な乗り継ぎ方や会場近くのホテルを調べ、飛行機やホテルの手配をしたりしました。
日本とは違うチケット発券の仕組みに戸惑い、英語での問い合わせに四苦八苦。また、アメリカは地域によって4つの時間帯に分かれています。私の向かう3都市は太平洋標準時と山岳部標準時とに分かれていたため、日本との時差に加え米国内の時差も考慮せねばならず、飛行機の出発&到着時間とライブ開演時間をシミュレーションする上で大混乱。そのような苦難を乗り越え何とか手配を完了した私は、7カ月後の目標体重を定め、減量に邁進しました。
心の広い夫はこのとんでもない思いつきを許してくれて、とても感謝しています。
しかし、唯一難関だったのは、郷里の母の説得でした。すっかり大人であるにも関わらずかなり心配をされました。というのも、 最初に訪れる場所がアルバカーキというニューメキシコ州の街で、そこは当時「全米犯罪率ワーストNo.1」。70歳近い母がまさかそんな情報に触れることはないだろうと高を括っていたのですが、ネットで見つけられてしまったのです。結局、説得はできず、「大丈夫、大丈夫!」と押し切って出かけることになりましたが…。
全米犯罪率ワースト1の街での、ベスト1な思い出
さて、いよいよ渡米の時がやって来ました。
長いフライトを終え、いざ入国審査。入国理由を聞かれたら元気に「サイトシーイング!」と言えば良いと思っていた私は浅はかでした…。そうです。アジア人中年女性の一人旅。
不法移民の可能性を疑われてしまったのか、入国審査官に延々と質問を受ける羽目に。
「なんでまたアルバカーキなんていう(メジャーではない)街に君が行くんだい?」「向こうに家族や知り合いでもいるのかい?」「え?いない?じゃあ何しに行くんだい?」と想定問答にない質問を矢継ぎ早に浴びせられ、ついに私はもじもじと「ライブコンサートに行くんです」と説明。
審査官:「え!?わざわざ日本から?誰のコンサートへ?」
私:「××というバンドです」
審査官:「××バンド名?HA!」(肩をすくめながら両手の平を上に向け、「まったくもって呆れたぜ!」のポーズ)
そんなすったもんだの入国を終え、無事ホテルに到着し、ホテルの人に会場までの交通手段を聞いたところ「タクシーしかないけど、行きは送って行ってあげるよ」と。日本で地図を見ていた時にはそんなに距離がないと思っていたその場所は、実際にはかなり遠く、しかも、平原に続く1本道は会場に向かう車で大渋滞。
ホテルの人にお礼を言ってついに会場へ到着。大地に沈みゆく夕陽を見ながら、青い芝生を踏みしめ屋外の会場へ。その時の達成感は何とも言えないものでした。周囲の人とカタコトの英語で語り合いつつ、30年越しの感動のライブを堪能したのです。
しかし、「やっとリアルにこの歌を聴けたのか…」と余韻に浸ったのも束の間、一大ピンチに遭遇するのです。
会場からホテルまでの長い道を戻るタクシーを呼んだのですが、渋滞のせいでいっこうに来てくれません。「ここは全米犯罪率ワースト1の街、ピンチだ…」と青ざめる私に、一緒にタクシー待ちをしていた2組のご夫婦が話し掛けてくれました。
「日本から一人で来たの!?私たちは日本に住んでいたことがあるのよ!」と。
聞けば米軍にお勤めの方々で、横須賀や沖縄に赴任されていたことがあったそうなのです。
タクシー待ちの間、彼らは私のつたない英語につきあって下さり、色々なことを語り合いました。
私の今回の旅のこと、音楽のこと、彼らが日本にいた頃の話(ご主人は日清焼そばU.F.O.が大好き!etc.)、互いの家族の話…。
そして結局、待てど暮らせど来る気配のないタクシーを諦め、彼らが呼んだご友人の車で、無事ホテルまで送り届けてもらったのです。
あの時の出会いと受けた恩は、到底忘れることはできません。
ピックアップトラックの荷台で、夜風を受けながら平原を走る。
まるでアメリカの青春映画のような1シーンは、一生忘れられない大切な思い出です。
その後、フェニックス→ロサンゼルスと回ったのですが、アルバカーキを離れた後も、一人旅の私を心配したご夫婦が、「フェニックスは暑いでしょう?」「ロスには無事着いたの?」と頻繁にFacebookのメッセージ機能で連絡を下さり、一人旅の心細さや寂しさを感じることなく移動できました。
その後の2つの街でも、アクシデントとそれに伴う素敵な出会いがありました。自分がとてつもない幸運に恵まれていたことを痛感し、感謝するとともに、ジムで俊敏さを身に付けたくらいでは広大なアメリカ大陸で無事過ごすには何の意味もないことを十分に理解し、無事に帰国。7年たった今でも、旅の途中で出会った方々とはSNSでの交流が続いています。
この夢中で得られたこと
今思い返しても、なぜあの時あれほどまでの「夢中」を再燃できたのかと、不思議に思います。東日本大震災の後、「これまで以上に“今”を大切に生きなくては」と思ったこと。これまでの人生に影響を与えてくれた祖母という存在との別れが近づいていたこと。「不惑」という一般的には惑わないはずの年代にさしかかっても尚、惑いも多かったこと。そういったことが絡み合い、自分に冒険と目標を課したのではないか、という気が今はしています。
この渡米をきっかけに、国内外での出会いが不思議なほどに拡がり、その後の人生にワクワクをもたらしてくれました。きっかけは音楽でしたが、それ以外の大切な繋がりを得ることができています。
この夢中事件は、私にとって、「人生をより主体的に生きよ」という啓示のようなものだったと感じます。生まれた場所や環境でこれまで経験できなかったことも、いつでも何であってもその勇気さえあれば手に入れることができるということ。そして世界は広いということを。
そして今でも思うのです。あの時、あの曲を私の脳内に流して、とんでもない旅を逐一素晴らしい出会いで護ってくれたのは、祖母だったのではないかと。
人生はまだまだ長い、この先の人生を豊かに生きなさいと。
ライター:MATSUDA